2014年



ーー−5/6−ーー 指笛


 
一年半前くらいから、指笛を吹くようになった。指笛とは、コンサートやスポーツイベントで、観客がピーっと鳴らす、あれである。始めたきっかけは、あるアマチュアバンド・フェスティバルだった。知り合いが出演したので、景気付けにピーっとやりたかった。ところが、思ったような大きな音が出ず、いわば不発に終わった。以前から慣れ親しんだやり方であったが、それまでも本番で失敗する事が多かった。そのやり方に問題があるのかと思い、ネットで調べてみた。

 調べてみると、いろいろな方法があることが分かった。私のこれまでの方法は、右手の親指と人差し指で輪を作り、舌の裏に当てて吹くものだった。その方法でも良いとされていたが、別に人差し指の二つの関節をそれぞれ90度に曲げ、鍵のような形を作り、小指側を上にして舌の上に乗せて吹く方法が紹介されていた。こちらの方が音が出やすいと書いてあるサイトがあった。その方法を真似て、しばらく試行錯誤したら、音が出るようになった。確かに音が出易く、また立ち上がりが良いように感じた。これなら、本番でタイミングを外す心配もなさそうだ。

 余談だが、指笛のマニアは、なかなか熱い。サイトを見ると、指笛の効用がいろいろ書いてあった。災害時に、指笛のおかげで遭難者が発見された例などが紹介されていた。人の声よりも、はるかに遠くまで届き、しかも疲労が少ないと。また、外国のある地域の遊牧には、遠く離れた者どうしが、指笛で会話をする習慣があり、世界無形文化遺産になっているとか。そんな指笛にまつわるエピソードが、数々述べられていた。

 さて、沖縄は、指笛が盛んだそうである。指笛サークルなども多いらしい。かの地では、小学生以上くらいの年齢の男子なら、誰でも指笛が吹けると書いてあった。外で知りあいを見つけたら、ピーっと鳴らして気付かせる。また、道端でタクシーを呼ぶ際などにも、ピーっとやる。そして、沖縄民謡の演奏に合わせて歌い、踊る場合にも、指笛を鳴らして盛り上げる。そう言えば、サンシンの賑やかな演奏に交じって、ピーピーという音を発するのを、何度となく聞いたことがある。沖縄では、人差し指を鍵型にして吹く方法が一般的なようであった。

 指笛のことをサイトで調べるうちに、指笛で音楽を奏でるという情報に接した。そう言えば、と思い出した事があった。十年以上前に、掛かり付けの鍼灸院の先生から、一本の音楽テープを頂いた。とても素敵な演奏だから、ぜひ聞いてみて欲しいとの事だった。それが、指笛演奏だった。私は別に興味もなかったが、せっかくだから聞いてみた。そうしたら、ちょっと感動する演奏だった。演奏家の名前は覚えてないが、今になってネットで調べてみると、田村大三という方だと推察された。指笛演奏でカーネギーホールに出演した人など、滅多にいないはずだ。

 指笛演奏に対する興味が高まった。さらに調べてみると、それほど難しい事ではなく、練習をすれば誰でもできると書いてあった。やり方は、指を鍵型に曲げる方式。これで指の曲げる度合いや、息の強弱を調節することにより、音の高さを変えるのだという。実際にやってみたら、だんだん音の高低を吹き分けられるようになった。なるほどこれなら、簡単な曲だったら演奏できそうだ。

 それからしばらくの間、毎日練習をした。指笛は、身一つで、いつでも何処でも練習できるという利点がある。仕事の合間、風呂の中、信号待ちの車の中など、その気になれば練習の機会はいくらでもある。二か月ほどしたら、子供の頃覚えた唱歌などを演奏できるようになった。知り合いが集まった場所で、座興に演奏した事もあった。得意にしていたケーナの演奏よりも、指笛の方が良いなどという感想を聞かされて、複雑な心境になったりした。

 それからも練習を重ねてきたが、じきに壁に突き当たった。順調に上達しないのである。赤ちゃんの指しゃぶりではないが、指が少し太くなり、音が出にくくなったように感じる事がある。そもそも歌と同じで、体だけで音を出すのだから、その時々のコンディションに左右される。道具に頼らないので、上達の伸び代は小さい。よほど本腰を入れて取り組まなければ、先へ進まない。かといって、それほど真剣にやるような事でもないように思ったりする。

 ともあれ、指笛は、何かのチャンスがあった時に、楽しめるのは確かである。コンサートでぐっと来た演奏に対して、拍手をするだけよりは、耳をつんざくようなピーで返した方が、こちらの気持ちが伝わるように思う。別方面では、鳥寄せなどの芸に発展させられる可能性もあるかも知れない。先に述べたように、座興で演奏するのにも、うってつけだ。何の準備も要らないからだ。道具を必要としないという点では歌も同じだが、歌は誰でもできるのに対して、指笛には聴衆にアピールする珍奇さがある。

 先日、帰省した長女の旦那に指笛の演奏を聞かせたら、「お義父さん、これをうちの会社の宴会でやったら、大受け間違いなしですよ」と言った。ちなみに彼が勤めているのは、関西の大手化学メーカーで、伝統的な体質が残っており、しょっちゅう飲み会が行われるそうである。




ーーー5/13−−− 東京の展示会迫る


 東京都内での展示会が、いよいよ今週の木曜日から始まる(→こちら)。東京での展示会は、1998年の松屋デパート、2004年のギャラリー「オ・アザール」に続き、今回が3回目となる。前回からは10年もの月日が経ってしまった。

 東京での展示会という言葉には、実に重いものがある。巨大都市東京で展示会を行うのは、作家にとって一つ憧れであり、夢である。しかし、創作家具と言うジャンルでは、なかなかハードルが高い。ある程度の展示スペースが必要になるが、スペースが大きいほどレンタル料が嵩む。品物の輸送の問題もある。滞在する宿泊費も安くはない。成果が上がるかどうか、蓋を開けてみなければ分からない展示会では、大都会故の支出の大きさは、存亡をかけた問題なのである。

 また、東京であれば何処でも良いというわけには行かない。10年ほど前に、知り合いの木工家が、六本木のギャラリーで個展を開いた。ところがさっぱり人が入らない。目の前の通りには、人が沢山通るのに、誰もギャラリーに入ってこない。会期中にほとんど来場者が無く、全く期待外れの結果となったそうである。「僕は新宿の公園のベンチに座って、一人泣きましたよ」と、その木工家は語った。

 この3月に展示会を行った、飯田市のアートハウスのように、ギャラリー自体に人を集める力が有り、また集まる人たちのレベルが高い、ということが、理想的だと言える。人が来さえすれば、後は私の仕事である。自分が作った作品を理解し、気に入ってもらえるよう、なんとか努力をする。しかし、人が来なければ、どうしようもない。

 今回の展示会では、上手く物事が運んで、我が工房に明るい光をもたらす結果になれば良いと願っている。

 ところで、右の画像は、今回のDM(案内状ハガキ)。家具の展示会の案内状としては、いささか風変わりな感じなので、事前には一抹の不安もあった。これまでの展示会のDMは、椅子などの家具の画像を使ったものがほとんどだったからである。案の定、「今回は照明器具だけの展示ですか?」と訊ねられたケースもあった。その反面、プラスの評価も多く寄せられて、安堵した。東京が舞台なら、少し謎めいた、アートっぽい事をやるくらいが必要だと考えての事だったが、その的は当たったようである(かな?)。

 もちろん出展のメインは、椅子、テーブル、箱物などの家具で、出品総数はおよそ20点である。自分で言うのも何だが、いずれも力が入った作品なので、多くの方々に見てもらいたい。トークショーも準備しているので、どうぞご来場下さい。






ーーー5/20−−− 展示会の結果


東京での展示会が終了した。久々の東京での展示会。期待していた成果は、おおむね達成されたように思う。この会場での初回としては、成功だったと言えるだろう。

 会場は新宿御苑の隣接地にあるラ・ケヤキ。元々はどなたかの邸宅だったそうである。門から一歩入れば、敷地内のうっそうたる木々の緑に驚かされる。特に庭の中央に立つ巨大なケヤキ。まさにこの場所のシンボルツリーである。建物も、かなり贅沢な作りで、広々とした間取りの、落ち着いた雰囲気である。その室内を使って展示会を行ったのだが、木工家具の展示場として、これほど相応しい場所は他に無いと思えるくらいであった。来場者は一様に「都心とは思えない」、「時間が止まったようだ」などの言葉を口にした。

 展示会の手応えは、十分にあった。来場のお客さまは、皆様感じが良かった。作品を丁寧に見て下さり、感想を述べて下さった。展示会で未知の来場者を接遇すると言うのは、時として心理的な負担を感じるものだが、今回は比較的楽に過ごすことが出来た。それと言うのも、この会場の落ち着いた雰囲気のせいだったのか。

 何点かの家具についてご注文を頂き、また小木工品も数多くお買い上げ頂いた。今回の特徴として、これまでの展示会ではあまり売れなかった靴ベラが、多く出た。その事を自宅に戻って家族に伝えたら、「東京の人は高級な靴を履いているからかしら」と言った。


      




ーーー5/27−−− 思い出す程度で丁度良い 


 息子は小学生のころ、地元のラグビースクールに通っていた。運動には不向きな子供だということは分かっていたが、少しはスポーツに関わらせた方が良いと思い、人数も少なく、メジャーでないこのスクールに入れた。案の定、入って最初の頃は、真面目に練習に参加せず、グランドの脇の草むらで、バッタなどを追いかけていた。それでもコーチは叱らなかった。

 毎週日曜日だけの練習だから、リトル(野球)や少年サッカー、ミニバスほど練習量が多いわけではない。しかし指導者は一流どころだったと思う。コーチの代表は、東京六大学のラグビー部のOBで、その筋では知られた人だった。そのようにラグビーに熱心な指導陣であったが、練習は厳しくなく、子供たちがボールと戯れるという感じのものだった。

 少年ラグビーと言っても、地域によっては厳しいところもある。指導者がヒステリックなくらいに激しく、目がつり上がり、子供たちを口汚く罵ったりして、傍目に不快感を覚えるようなところもあった。そういうチームと試合をすれば、我がチームはあっけなく負けた。負けてもコーチは怒りもしない。子供たちの良かった所を見つけようとする姿勢だったが、それが見つからないほど一方的に負けることが多かった。

 私は父兄として、そのような指導方針にふがいなさを感じることがあった。もう少し厳しく練習をさせて、少しは勝てるくらいにし、子供たちが達成感のようなものを感じられるようにしたほうが良いのではないかと。私はそれを口にしたことは無かったが、代表はそれとなく察したのだろう。ある時私に向かってこう言った。

 「試合の勝ち負けなどは、どうでも良いのです。いまだにリトルなどは、甲子園選手を目指すなどと言ってるようですが、そんなのも馬鹿げていると思います。私は、一流選手を育てるつもりもありませんし、一流チームを目指してもいません。私は、子供たちが、小学生の一時期に、ラグビーなるものをやったという思い出が残るくらいで、充分だと考えています」

 それを聞いて私は、やはり釈然としなかった。なんと覇気が無い指導者か、と感じたのである。その一方で、息子が一流のラグビー選手になることなど期待もしていなかったから、反論する事も無かった。子供の面倒を見てくれるだけでも有り難い、という気持ちもあったと思う。

 今となって、あの指導者の発言は、誠に的を得ていたものだと感じる。周りを見ると、子供があるスポーツに手を染めると、例えば小学校で卓球を始めると、中学でも卓球部に入り、それで少し成績が良いと、高校も卓球が強い所に進むなどという、エスカレーター式が多い。まるで一旦始めたスポーツから浮気をすると、それに掛けた時間が無駄になる、あるいは掛けた費用の元が取れなくなる、という発想のようにすら感じる。しかし、その子供にとって、そのスポーツが最適とは限らないのではないか。ましてや小中学生くらいでは、自分で判断する能力も無い。ほとんどは親の意向で決まるのだと思う。

 親や周囲の大人が、過剰に子供に期待をし、特定のスポーツを強要し、その挙句子供が潰れてしまったという話を耳にする。あるいは、あまりに厳しい練習環境に置かれたために、そのスポーツが嫌いになり、憎むようになるケースもあるという。それは言わば負の教育効果という事になるだろう。そんな事を経験させるためにスポーツを始めさせたわけでは無いはずだ。

 欧米の学校では、スポーツの部活は、一年ごとに競技を変えるルールになっているところもあるという。いろいろなものを経験させるという趣旨だろう。いろいろなものを経験させて、その上で最終的に何を選ぶかは、ハイスクールを卒業するころ決めるらしい。本人が判断力を持ち、自分の責任で対処できる年齢になってからということだ。それでは、一流選手になるには遅すぎる、と思われるかも知れないが、ほとんどの生徒は、一流選手になることが目的ではないのである。スポーツに親しむことの意義は、あくまで個人的なものであり、その人が人生を豊かに過ごすための調味料のようなものだと考えるのが、妥当ではなかろうか。








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